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このわのブログ

一方通行の終焉と、循環のはじまり

一方通行の終焉と、循環のはじまり

人はいつから、
「生きること」と「稼ぐこと」を
別々に考えるようになったのだろう。

かつて人々は、
自らの手で米を育て、味噌を仕込み、
季節の恵みを分け合いながら暮らしていた。
そこには、つくる人と食べる人の境界はなく、
「働くこと」も「感謝すること」も、
同じ循環の中にあった。

けれど、
産業が発達し、効率が最優先される時代になると、
人は土から離れ、「つくる」を他人に委ねた。
その瞬間、経済の歯車は回り始め、
「お金」は感謝の印から、
“得を競うための道具”へと姿を変えた。

やがて都市は膨張し、
ボタンひとつで何でも手に入るようになった。
その便利さの裏で、
人は“待つこと”も“育てること”も忘れた。
心が通う前に、モノが届き、
感謝の前に、消費が終わる。
それが、今の現実。

国がどれだけお金を発行しても、
循環しない社会では“幸せ”は増えない。
なぜなら、
豊かさとは「量」ではなく、「流れ」だから。

では、どうすればいいのか。

その答えは、
昔から人々の暮らしの中にあった。

お茶の木が人を迎え、
シュロが家を整え、
味噌を仕込み、米を分け合う。
秋には柿を干し、春にはよもぎを摘む。

その暮らしの一つひとつが、
“生きること”の原点だった。
誰かが作り、誰かが受け取り、
また誰かが返す。
そうして「恩」は形を変えながら巡っていた。

和菓子このわは、
この循環を、もう一度確かな形として取り戻したい。

今年のお米作りは、
脱穀、籾摺り、精米、貯蔵まで、
すべて自分の手で完結させた。

二、三年前。
缶コーヒー一杯さえ惜しみ、
水筒にインスタントコーヒーを入れて働いていた。

あの頃、消費を限りなく捨て、
“次に繋げ、生み出す仕組み”に、
すべてを投じた。

そして今、
お米作りを自分の手でやり遂げたことを、心から誇りに思う。

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