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このわのブログ

国債で配っても、循環は戻らない

**需要の崩壊が始まる前に。

— 国債で配っても、循環は戻らない —**

よく言われます。

「物価が上がったら、

みんなの給料を上げればいいじゃないか」

「企業は高く仕入れ、

高く売り、

高い給料を払えば循環が戻る」

でも、それを続けるために

国が国債を発行して、

消費者にお金を配るなら——

それはただの“延命措置”です。

なぜか?

お金だけ増えて、

価値(労働・生産)が増えていないから。

空っぽの鍋に

皿だけ増やしているのと同じ。

満たされるはずがない。

ここを一度、はっきり言っておきたい。、

国債とは「未来の労働の前借り」です。

配ったお金は、

未来の誰かが働いて返す。

だから本来はこうなるべきです。

──国債を受け取ったなら、

その見返りとして、誰かが働く。

ところが現実はこうです。

・働いていない

・生産は増えていない

・循環も戻っていない

・ただ“お金だけ”増えている

これが、最大の欠点。

お金が湧き出て

自分のポケットに入ったら、

普通は警察に持って行かないといけない。

労働を伴わない受け取りは、

言い方は悪いけれど

“価値の窃盗”になる。

奪う側と奪われる側が生まれ、

経済の循環は必ず止まる。

そしてもうひとつ。

人の給料や物価が上がれば、

必ずセットで上がってくるものがある。

税金。

これを嫌っているのは、

誰よりも「消費者の味方」を名乗る店だ。

だから言いたい。

高く仕入れて、高く売り、高い給料を払う。

本当にできていますか?

言葉だけなら誰でも言える。

でもそれを実現するための

覚悟・責任・工夫・努力。

そこに触れない発信は、

ただの理想論で終わってしまう。

そして忘れてはいけない。

人間が中心で、

自然やインフラの価値が

まったく語られていない。

水も、電気も、道路も、信号機も、

全部「安いから払えていただけ」。

その支えに気づかず、

「もっと豊かになれ」と語るのは危険だ。

今、静かに近づいているのは

“需要そのものの崩壊”。

そのとき平常に生きられるのは、

ただ一つの条件を満たした人だけ。

自立している人。

農でもいい。

電気でもいい。

水でもいい。

手仕事でもいい。

“何かひとつ、自分の足で立てるものがある人”。

その人は、

需要が消えても揺らがない。

ここで強調したいのは、

恐怖でも不安でもない。

ただ、気づいた人から

静かに立ち位置を変えていけばいい。

奪わない側へ。

奪われない側へ。

誰も犠牲にしない側へ。

これからの時代、

その場所が唯一の安全圏になる。

 

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