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このわのブログ

もう一度労働が報われる場所へ

労働が、もう一度報われる場所へ

昨日、道路に面した山の法面の草を刈った。

自分の山でもあるし、

正月に帰省する人たちが通りやすいように、

ただそれだけの理由だった。

刈った草が道路に広がったから、

竹箒で黙々と掃いた。

誰に見せるわけでもなく、

誰かに評価されるつもりもなく、

ただ「今やるべきこと」をやっただけだった。

その時、

通りがかった見知らぬ人に声をかけられた。

「綺麗にしてくれて、ありがとうございます」

その一言で、

胸の奥にすっと火が入った。

——ああ、やってよかった。

——これは、誰かにちゃんと届いていた。

これが

労働が報われる瞬間なんだと思った。

今の社会には、

この感覚が、あまりにも少ない。

人は

黙って使い、

黙って通り過ぎ、

文句だけを残していく。

だから

働く人は、

「誰のためにやっているのか」が

分からなくなる。

評価制度や、

報酬や、

数字や、

効率や、

正しさばかりが前に出て、

**“人と人の往復”**が消えていった。

最近、商売について深く考えるようになった。

安く仕入れて、

高く売って、

大量に作って、

身を削って働く。

その先にある現実は、

営業利益の半分が税金として消え、

現場だけが疲弊する構造だった。

それは

誰かが悪いわけでもない。

でも、

誰も報われない仕組みだった。

だから私は、

無理に売らないと決心した。

これは

SDGsでも、

環境配慮のスローガンでもない。

現場の倫理だ。

ここまでわかって、

はじめて私は、

市の職員さんや公務員の方に

こう言えるようになった。

「お仕事ご苦労様です。

来年は、もっと納税できるように努めます」

これは皮肉でも、

諦めでも、

負け惜しみでもない。

役割を理解した人間の言葉だ。

税金は

奪われるものではなく、

社会を維持するために

自分の責任範囲で引き受けるコスト。

そう思えた時、

社会は初めて

“敵”ではなくなった。

努力してきた人、

リスクを背負ってきた人、

失敗も、成功も、

両方を通り抜けた人は、

もう他人を批判しない。

一度でも

自分で決め、

逃げずにやり切った場所に立てば、

世界は静かになる。

批判は、

理解できない場所から生まれる。

でもそれは

悪ではない。

ただ、

通っていない道は、見えない

それだけのことだ。

今日の

「綺麗にしてくれて、ありがとうございます」

あの一言は、

制度よりも、

理屈よりも、

どんな改革よりも、

ずっと社会を健やかにする力を持っている。

労働が、

ちゃんと人に届いた証。

人は

この感覚があれば、壊れない。

➕があるから、

➖がある。

どちらかだけを消そうとすると、

自分の立ち位置が消えてしまう。

だからこそ、

お互いを尊重する。

それだけでいい。

 

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